息子が産まれる前、「私は仕事が生きがい。出産後も働きたい。」とよくママは言っていた。
美容師であるママは数店舗あるチェーン店の中で指名数が1番であることが自慢で、仕事が早くて丁寧。という自負があり、美容師という仕事にやりがいを見出していた。
帝王切開で初めての赤ん坊を産んだ時、医師は「五体満足な元気な男の子です。」と報告してきたが、それからしばらくすると「五体満足と言いましたが、、、、、。」と病室に訂正に来た。
息子は多合指症だった。足の小指の外にもう一本小さい指があり、その指が小指とくっついていた。
産まれてばかりの赤ん坊は手術する体力がないので、1年後に手術することになった。
ママは産まれてきた赤ん坊が可愛くて離れたくなかったのか、「美容師で復帰しても1年後、手術で入院する際、長い間休職しないといけないから仕事の復帰は手術後にする。」と意見を変えていた。
1年後、無事に手術が終わり、足の程度が良くなるまで息子は入院した。
毎日、ママは朝から夜までお見舞いに行った。病棟の面会時間は9時までで、時間になると両親は帰らなければいけない。
だからどの親も9時までに我が子を寝かせつけるのに必死だった。
寝れなかった子供は両親が帰ると必ずと言ってよいほど泣くので9時を過ぎると、あちこちの部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのが恒例だった。
後にギフテッドと診断される息子は9時までに寝ることはなかった。だから毎日、息子が大泣きするのを背中に感じ、帰るのが辛かった。
看護師の聞いた話によると、他の子は一泣きすると疲れて寝てしまうらしい。ただうちの息子は何時間も泣き続けるそうだ。ひどいと明け方まで5~6時間も続けて泣くのだという。
だから次の日の朝にママがお見舞いにいくと、息子は安堵したように眠りこくった。
息子は手術後の回復具合も順調だった。ママは息子の手術後に復帰する予定だったが、復帰しなかった。
病院で他の子が泣き疲れ寝る中、ずっと泣いていたように息子は他の子と違った部分があった。ママは「この子の育児は異常に疲れる。 」と嘆いていたが、私は赤ん坊なんて皆そういうものだろうと思っていた。、、、が、今思うとママの言うようにうちの子は特殊だったのかもしれない。
俗にいう子育て論はうちの子には通用しなかった。
息子は療育に通うことになり、週に5日、あるいは6日療育に通い続けた。
「あなたは早期に仕事復帰したいと願っていたけど、この子は親と離れたくないから足が多く産まれてきたり、療育に通ったりするように産まれてきたのよ。」とママのお母さんが言い、ママはその言葉を啓示と受け取ったのか、全力で息子に向き合うようになった。
ギフテッドの子育ては大変と言われる通り、ママは苦しんだ。育児ノイローゼになり、週末になると、朝から晩まで家を出て戻ってこないようになった。
平日、24時間、息子といて息が詰まりそうなので、パパが休みの日くらい息子から解放されたい。と言うのがママの主張だった。
ママを一番苦しめたのは、息子の周りの子を叩く癖だ。その度にママは相手の親に謝り続けた。
私は息子がトラブルを起こすのが嫌だったので、公園などに連れていかず週末は息子と家で過ごすか、実家に連れて帰るようにしていた。
ママは育児ノイローゼになりながらも、「この子には経験が必要。」と言って、子供のいる所へ連れていってはトラブルを起こし、謝ってどんどん病んでいった。
そしてしまいには息子に向かって「あんたなんか、産まれて来ない方が良かった。キャリアウーマンだった私の人生を返してよっ。」と小学校1年生の息子に泣いて訴えたりしていた。
それでもママは楽をせず、毎日、療育に連れて行き、時間があると息子に経験を積ませる為に外に連れていった。
そんな努力が実ったのか小学校3年生になる頃には息子は成長し、周りとトラブルを起こすこともなくなりつつあった。時間的にも余裕が出来て、ママは週に2日程度、美容院で働くようになった。
夏休みになると、息子よりママが真剣になって自由研究に取り組んだ。その課題が市で金賞を取ると、息子以上にママが喜んだ。
公文にも欠かさず連れていき、クラスが上がるたびに息子よりママが喜んだ。
最近もママが「私はキャリアウーマンだったのに、あなたが産まれてきたせいで、人生の設計図が台無しだわ。」と息子に言っていた。
私は離れた机でその言葉を聞いていたが、その声はどこか嬉しそうに、どこか誇らしげに聞こえた。
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